透花の庭 ~雨上がりに咲いた永遠の薔薇~

透花の庭 ~雨上がりに咲いた永遠の薔薇~

last updateLast Updated : 2025-12-12
By:  佐薙真琴Completed
Language: Japanese
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十六歳の透花は、母を亡くした。 悲しみから目を背け、他者を救うことだけに生きる日々。それが透花の、歪んだ優しさだった。 ある日、古い図書館で出会った謎の老婦人が告げる。「失ったものが見つかる庭が、ある」と。 庭を探す透花は、難病の少年・蒼と出会う。彼を救いたい。その一心で、透花は廃墟の温室に咲く一輪の薔薇を見つける。七十年間、誰にも世話されず咲き続ける深紅の花。その名は『永遠の約束』。 だが、蒼の命は儚く消えた。 何も救えなかった。絶望の中で透花が辿り着いたのは、温室の薔薇の前だった。 雨の夜、透花は知る。庭とは失ったものを探す場所ではなく、失ったものと共に生きる場所だと。

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Chapter 1

第一章 雨の葬列

 雨は透花の世界を灰色に塗り替えた。

 十月の冷たい雨が、黒い傘の列を濡らしていく。透花は喪服の袖で顔を覆い、母の棺が祭壇に運ばれるのを見つめた。棺の中には、もう二度と目を開けることのない母がいる。三年の闘病の末に、母は静かに息を引き取った。

 透花は十六歳だった。

「透花ちゃん、しっかりね」

 叔母の言葉が耳を通り過ぎていく。透花は頷いた。涙は出なかった。いや、出せなかった。悲しみは確かにそこにあるのに、それを表現する方法が分からない。まるで心に蓋をされたような、奇妙な空虚さだけが透花を満たしていた。

 式が終わり、参列者が次々と去っていく。透花は一人、雨に打たれる墓標の前に立ち続けた。

「お母さん」

 小さく呟いた声は、雨音に消える。

 母は優しい人だった。病床でも、透花のことを気遣い続けた。「大丈夫よ」と微笑んで、透花の手を握った。その手は日に日に細くなり、やがて透花の手を握り返す力さえ失っていった。

 最期の日、母は何か言おうとして、言葉にならなかった。透花はその唇の動きを読もうとしたが、分からなかった。母は静かに目を閉じ、そして二度と開かなかった。

 あの時、母は何を言おうとしていたのだろう。

 透花は墓標に手を伸ばした。冷たい石の感触が、指先から心臓まで冷気を送り込んでくる。

「すみません、透花さん。お車をお待たせしていますので」

 葬儀社の男性の声に、透花は我に返った。頷いて、墓地を後にする。振り返ると、母の墓標が雨の向こうに霞んでいた。

 家に戻ると、透花は母の部屋に入った。

 病院から運ばれてきた母の私物が、段ボール箱に収められている。透花は箱を開け、一つ一つ取り出していった。パジャマ、スリッパ、読みかけの本。どれも母の匂いがする。

 箱の底に、古い革表紙のノートがあった。

 透花はそれを手に取り、開いた。母の丁寧な文字が、ページを埋めている。日記だった。

 最初のページには、十七年前の日付が記されていた。透花が生まれる前だ。

『今日、妊娠が分かった。嬉しい。怖い。この小さな命が、ちゃんと育ってくれるだろうか。私は良い母親になれるだろうか』

 透花は息を呑んだ。母の不安が、ページから滲み出てくる。

 ページをめくる。母の日常が、言葉となって現れる。透花が生まれた日の喜び。初めて笑った日の感動。初めて歩いた日の驚き。

 そして、透花が五歳の時の記述。

『透花は優しい子だ。公園で転んだ子を見て、自分のハンカチを差し出していた。誰に教えられたわけでもないのに。この子の優しさは、どこから来るのだろう』

 透花の目が熱くなった。

『でも、少し心配だ。透花は自分のことより、他の人のことばかり気にする。自分が悲しい時でも、私に心配をかけまいと笑顔を作る。まだ五歳なのに』

 透花は日記を閉じた。

 母は知っていたのだ。透花が自分の感情を押し殺していることを。他者の痛みを引き受けることで、自分の痛みから逃げていることを。

 でも、母はそれを責めなかった。ただ、心配していた。

 透花は日記を抱きしめた。そして初めて、声を上げて泣いた。


 一週間が過ぎた。

 透花は学校に戻った。クラスメイトたちは気を遣って、透花に話しかけることを躊躇った。透花はそれに感謝しつつも、その距離が自分を一層孤独にすることを感じていた。

 放課後、透花は図書室に向かった。

 本に囲まれた静かな空間が、透花の唯一の安らぎの場所だった。司書の先生は優しく微笑み、何も聞かずに透花を迎え入れてくれた。

 透花は奥の席に座り、本を開いた。文字が目に入ってくるが、意味は頭に入らない。ただページをめくる動作だけが、透花に何かをしているという感覚を与えてくれた。

 夕方近く、透花は図書室を出た。

 校門を出ると、小雨が降り始めていた。透花は傘を開き、いつもと違う道を選んだ。家に帰りたくなかった。母のいない家に。

 住宅街を抜け、商店街を通り過ぎる。やがて透花は、古い建物の前に立っていた。

 市立図書館。

 透花は何度か前を通ったことがあったが、中に入ったことはなかった。古びた建物は、昭和の香りを漂わせている。

 なぜか、透花は中に入りたくなった。

 重い扉を押し開けると、古い本の匂いが鼻をついた。木製の床が、足音に反応して軋む。

 館内は薄暗く、訪れる人もまばらだった。受付の女性は眠そうに雑誌を読んでいる。

 透花は書架の間を歩いた。

 哲学、歴史、文学。背表紙が並ぶ。透花は文学の棚の前で立ち止まり、適当に一冊を取り出した。

「その本は、悲しい人には向かないわ」

 声に振り向くと、老婦人が立っていた。

 白髪を丁寧に結い上げ、上品な装いをしている。だが、その顔には深い皺が刻まれ、目は不思議な光を宿していた。

「え?」

「その本は、悲しみに沈む人を一層深い淵に引きずり込むの。あなたには、別の本が必要だわ」

 老婦人は透花から本を受け取り、棚に戻した。そして別の本を取り出し、透花に手渡した。

「これを」

 表紙には『失われた庭の物語』と書かれていた。

「これは……?」

「読めば分かるわ。でも、今日はもう遅い。借りていきなさい」

 老婦人は微笑んだ。その微笑みには、どこか透花を見透かすような、不思議な深みがあった。

「あの、あなたは……」

「ただの本好きの老婆よ。でも、あなたは特別ね。透花ちゃん」

 透花は息を呑んだ。

「どうして私の名前を……」

「さあ、早く帰りなさい。雨が強くなるわ」

 老婦人はそう言うと、書架の奥に消えていった。透花は後を追おうとしたが、その姿はもう見えなかった。

 透花は本を胸に抱き、図書館を後にした。


 その夜、透花は借りてきた本を開いた。

 それは一冊の童話のようだった。挿絵もなく、ただ文字だけが続く。

『昔々、ある国に美しい庭がありました。その庭では、失われたものが再び見つかると言われていました』

 透花は読み進めた。

 物語の主人公は、大切な人を失った少女だった。少女は庭を探して旅に出る。道中、様々な人に出会い、様々な試練を乗り越える。

 だが、物語は途中で終わっていた。最後のページには、こう書かれていた。

『少女は庭を見つけたでしょうか。それは、あなたが決めることです』

 透花は本を閉じた。

 失われたものが見つかる庭。そんなものが、本当にあるのだろうか。

 いや、あるはずがない。

 でも、透花の心の奥で、小さな希望が芽生えていた。もしかしたら。もしかしたら、母に会えるのではないか。もう一度、母の声を聞けるのではないか。

 透花は母の日記を取り出し、続きを読んだ。

『透花が十歳になった。最近、よく図書館に行くようになった。本が好きなのは、私に似たのかもしれない。でも、透花は本の中に何を探しているのだろう』

 透花は息を呑んだ。

 そうだ。透花はずっと、何かを探していた。本の中に、答えを。自分の存在する理由を。誰かの役に立つ方法を。

『今日、透花が泣いていた友達を慰めていた。優しい子だ。でも、透花自身が泣く姿を、私は見たことがない。この子は、本当は誰に慰めてほしいのだろう』

 透花の視界が滲んだ。

 母は全て知っていた。透花の弱さも、痛みも、孤独も。でも、母は何も言わなかった。ただ、そばにいてくれた。

 そして今、母はいない。

 透花は日記を閉じ、窓の外を見た。雨は止んでいた。夜空には、雲の切れ間から星が見えた。

 明日、もう一度図書館に行こう。あの老婦人に会おう。そして、庭のことを聞こう。

 それが何の役に立つのか、透花には分からなかった。でも、何もしないよりはましだった。

 透花は本を枕元に置き、目を閉じた。

 夢の中で、母が微笑んでいた。

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第一章 雨の葬列
 雨は透花の世界を灰色に塗り替えた。 十月の冷たい雨が、黒い傘の列を濡らしていく。透花は喪服の袖で顔を覆い、母の棺が祭壇に運ばれるのを見つめた。棺の中には、もう二度と目を開けることのない母がいる。三年の闘病の末に、母は静かに息を引き取った。 透花は十六歳だった。「透花ちゃん、しっかりね」 叔母の言葉が耳を通り過ぎていく。透花は頷いた。涙は出なかった。いや、出せなかった。悲しみは確かにそこにあるのに、それを表現する方法が分からない。まるで心に蓋をされたような、奇妙な空虚さだけが透花を満たしていた。 式が終わり、参列者が次々と去っていく。透花は一人、雨に打たれる墓標の前に立ち続けた。「お母さん」 小さく呟いた声は、雨音に消える。 母は優しい人だった。病床でも、透花のことを気遣い続けた。「大丈夫よ」と微笑んで、透花の手を握った。その手は日に日に細くなり、やがて透花の手を握り返す力さえ失っていった。 最期の日、母は何か言おうとして、言葉にならなかった。透花はその唇の動きを読もうとしたが、分からなかった。母は静かに目を閉じ、そして二度と開かなかった。 あの時、母は何を言おうとしていたのだろう。 透花は墓標に手を伸ばした。冷たい石の感触が、指先から心臓まで冷気を送り込んでくる。「すみません、透花さん。お車をお待たせしていますので」 葬儀社の男性の声に、透花は我に返った。頷いて、墓地を後にする。振り返ると、母の墓標が雨の向こうに霞んでいた。 家に戻ると、透花は母の部屋に入った。 病院から運ばれてきた母の私物が、段ボール箱に収められている。透花は箱を開け、一つ一つ取り出していった。パジャマ、スリッパ、読みかけの本。どれも母の匂いがする。 箱の底に、古い革表紙のノートがあった。 透花はそれを手に取り、開いた。母の丁寧な文字が、ページを埋めている。日記だった。 最初のページには、十七年前の日付が記されていた。透花が生まれる前だ。『今日、妊娠が分かった。嬉しい。怖い。この小さな命が、ちゃんと育ってくれるだろうか。私は良い母親になれるだろうか』 透花は息を呑んだ。母の不安が、ページから滲み出てくる。 ページをめくる。母の日常が、言葉となって現れる。透花が生まれた日の喜び。初めて笑った日の感動。初めて歩いた日の驚き。 そして、透花が五歳の時の記述
last updateLast Updated : 2025-12-04
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第二章 図書館の老婦人
 翌日の放課後、透花は再び市立図書館を訪れた。 秋の陽射しが、古い建物の壁面を照らしている。昨夜の雨で洗われた空気が、どこか透明で、透花の肺に心地よく入り込んできた。 図書館の扉を開けると、昨日と同じ古書の匂いが透花を迎えた。受付には同じ女性がいて、やはり雑誌を読んでいる。 透花は館内を歩き、老婦人の姿を探した。 しかし、どこにもいない。 透花は文学の書架に戻り、昨日立っていた場所に立った。老婦人は、確かにここにいた。そして、透花の名前を知っていた。「探し物かしら?」 声に振り向くと、老婦人が立っていた。 昨日と同じ上品な装い。だが、今日はどこか疲れたような、影のある表情をしていた。「あの、昨日は……」「覚えているわ。透花ちゃん。本は読んだ?」「はい。でも、途中で終わっていて……」「そうね。あの本は未完なの。作者が結末を書かずに亡くなってしまったから」 老婦人は寂しげに微笑んだ。「でも、あの庭の話は……本当なんですか?」「本当とは何かしら?」 老婦人は透花の目を見つめた。「物語は全て嘘よ。でも、全ての嘘の中に、真実がある。あなたは何を信じたいの?」 透花は答えに詰まった。「私は……失った人に、もう一度会いたいんです」 その言葉が口をついて出た瞬間、透花は自分でも驚いた。それは透花が認めたくなかった、本当の願いだった。 老婦人は静かに頷いた。「そう。でもね、透花ちゃん。庭で見つかるのは、失ったものではないの」「え?」「失ったものは、もう戻らない。庭で見つかるのは、失ったものの意味よ」 老婦人はそう言うと、書架の間を歩き出した。透花は後に続いた。 やがて二人は、図書館の最奥にある小さな部屋に辿り着いた。「郷土資料室」と書かれたプレートが、古びた扉に掛かっている。「ここには、この街の古い記録がある。新聞、日記、写真。人々の記憶が、紙の中に閉じ込められているの」 老婦人は扉を開けた。 室内は薄暗く、古い紙の匂いが充満していた。壁際には木製の書棚が並び、黄ばんだファイルや本が詰め込まれている。「七十年前、この街には本当に美しい庭があったの」 老婦人は棚から一冊のアルバムを取り出し、開いた。 そこには、古い白黒写真が貼られていた。 広大な庭園。中央には温室があり、その周りを花々が取り囲ん
last updateLast Updated : 2025-12-04
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第三章 探索の始まり
 その夜、透花は母の日記の続きを読んだ。『透花が中学生になった。最近、また変化を感じる。以前より笑顔が増えた。でも、それは本当の笑顔だろうか』 透花は目を閉じた。 中学時代、透花はクラスの誰とでも仲良くしようとした。困っている友達がいれば、真っ先に手を差し伸べた。でも、透花自身が困った時、誰かに助けを求めることはなかった。『今日、透花の担任の先生と話をした。「透花さんは誰とでも仲が良くて、クラスをまとめてくれる存在です」と言われた。 嬉しかった。 でも、先生がこうも言った。「ただ、透花さん自身のことになると、驚くほど何も話さないんですね」』 透花は唇を噛んだ。『私は透花に聞いた。「何か困ったことがあったら、お母さんに話してね」と。透花は笑って答えた。「大丈夫だよ。お母さんこそ、体調悪い時は無理しないでね」』『この子は、いつも私のことを心配している。自分のことは後回しにして』 透花は日記を閉じた。 母は全て分かっていた。透花が自分を犠牲にしていることを。でも、母はそれを止めなかった。ただ、心配していた。 なぜ止めなかったのだろう。 透花は考えた。もしかしたら、母は透花が自分で気づくのを待っていたのかもしれない。自分の生き方が、本当に正しいのかどうかを。 翌日、透花は学校が終わるとすぐに病院に向かった。 受付で尋ねると、蒼は小児病棟にいると教えられた。透花は病棟に行き、ナースステーションで蒼の病室を聞いた。「面会ですか? ご家族の方?」「いえ、友達です」 看護師は少し困った顔をしたが、最終的に病室の番号を教えてくれた。 透花は廊下を歩き、蒼の部屋の前に立った。 ドアをノックする。「どうぞ」 蒼の声がした。 透花はドアを開けた。 白い病室。窓際のベッドに、蒼が座っていた。本を読んでいたらしく、透花を見て驚いた表情になった。「透花さん? どうし
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第四章 共にある時間
 翌日、透花は写真を持って蒼の病室を訪れた。 蒼はベッドに座り、点滴を受けながら本を読んでいた。透花を見ると、嬉しそうに笑った。「来てくれたんだ」「うん。これ、見て」 透花はスマートフォンの画面を蒼に見せた。 深紅の薔薇の写真。 蒼は目を見開いた。「これ……どこで?」「温室の跡。まだ咲いてたの」「信じられない。七十年も前の薔薇が……」 蒼は画面を食い入るように見つめた。「綺麗だ。本当に綺麗だ」 その目には、涙が浮かんでいた。「蒼くん?」「ごめん。なんか……嬉しくて」 蒼は涙を拭った。「僕、ずっと思ってたんだ。病気になってから、綺麗なものを見る資格がないって」「そんなこと……」「だって、僕は死ぬかもしれない。綺麗なものを見ても、すぐに忘れてしまう。それなら、見ない方がいいって」 蒼の声が震えた。「でも、透花さんがこの写真を見せてくれて……分かったんだ。綺麗なものは、今見なきゃ意味がないって」 透花は蒼の手を握った。「うん。今、生きてるから、見られるんだよ」 蒼は透花を見つめた。「透花さんは、どうして僕にそんなに優しくしてくれるの?」「え?」「僕たち、まだ二回しか会ってないのに。透花さんは、立ち入り禁止の場所まで行って、僕のために薔薇の写真を撮ってくれた」 透花は答えに詰まった。 どうしてだろう。なぜ、透花は蒼のためにそこまでするのだろう。「私……誰かの役に立ちたいの」 透花は正直に答えた。「母が死んでから、私は何もできなかった。母が苦しんでる時、ただそばにいることしかできなかった。何も救えなかった」
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第五章 母の日記
 温室から戻った後、透花の中で何かが変わり始めていた。 蒼の前で弱さを見せたことで、透花は少しだけ楽になった。完璧でいなくてもいい。強くなくてもいい。そう思えるようになった。 家に帰ると、透花は母の日記の続きを読んだ。 今まで読むのを避けていた部分。母が病気を告知された後の記述。『今日、医者から告知を受けた。癌。進行している。治療は可能だが、完治は難しいと言われた』『透花にどう伝えればいいのか。この子は、きっと自分を責める。私が病気になったのは自分のせいだと思うだろう』 透花は息を呑んだ。 その通りだった。母が病気になった時、透花は自分を責めた。もっと早く気づけば。もっと母を休ませてあげれば。『でも、それは違う。病気は誰のせいでもない。ただ、起こってしまったことなのだ』 透花の目が熱くなった。『透花に伝えた。透花は泣かなかった。「大丈夫だよ、お母さん。一緒に頑張ろうね」と笑顔で言った。でも、その笑顔の裏で、この子がどれだけ泣いているか、私には分かる』 透花は唇を噛んだ。『私は透花に、もっと自分のために泣いてほしい。自分のために怒ってほしい。でも、この子はきっと、最後まで笑顔でいようとするだろう』 ページをめくる。『治療が始まった。副作用がきつい。吐き気、脱毛、倦怠感。でも、透花の前では平気なふりをしている。透花も、私の前では平気なふりをしている。私たちは、お互いに嘘をついている』 透花の視界が滲んだ。『今日、透花が学校を休んで私の看病をしようとした。私は叱った。「学校に行きなさい」と。透花は泣きそうな顔をして、それでも学校に行った』『私は間違っていただろうか。でも、透花には自分の人生を生きてほしい。私の看病だけに捧げる人生ではなく』 透花は涙を流しながら読み続けた。『入院することになった。透花は毎日見舞いに来る。学校が終わるとすぐに。そして、帰りは夜遅くなる』『今日、透花に言った。「そんなに毎日来なくていいよ。友達と遊んだり、部活をしたり
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第六章 庭の幻影
 その週、透花は蒼に会いに行けなかった。 中間試験があり、透花は勉強に追われていた。蒼にはメッセージを送り、試験が終わったら会いに行くと約束した。 蒼からの返信は簡潔だった。「頑張って。無理しないでね」 透花は、蒼の言葉に込められた優しさを感じた。 試験最終日の放課後、透花は病院に向かった。 受付で蒼の病室を聞くと、看護師は困った顔をした。「あの……蒼くんは、今日転院されました」「え?」 透花の心臓が跳ねた。「転院って……どこに?」「すみません。個人情報なので、詳しくは……」「お願いします。私、蒼くんの友達なんです」 透花は必死に頼んだ。 看護師は迷った末、小声で言った。「大学病院の集中治療室です。容態が急変して……」 透花は走り出していた。 大学病院は隣町にあった。 透花は電車に飛び乗り、病院に向かった。車窓から見える景色が、ぼやけて見えた。 頭の中で、蒼の言葉が繰り返される。「僕が死んだら、誰が覚えていてくれるだろう」「何も残さずに消えることが怖い」 いや、だめだ。蒼は死なない。まだ、言わなければならないことがある。伝えなければならないことがある。 大学病院に着いた。 受付で蒼の名前を告げると、面会は家族のみと言われた。「でも、私……」「申し訳ございません。集中治療室は、ご家族以外の面会をお断りしております」 透花は廊下の椅子に座り込んだ。 どうすればいい。 透花は考えた。そして、スマートフォンを取り出した。 蒼の両親の連絡先は知らない。でも、前の病院には記録があるはずだ。 透花は前の病院に電話をかけた。
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第七章 温室の真実
 深夜、透花は病院の裏手の柵を越えた。 月明かりが、うっそうとした木々の間を照らしている。透花は温室に向かって歩いた。 枯れ葉を踏む音だけが、静寂を破る。 温室に着いた。 月光が割れたガラスの天井から差し込み、内部を幻想的に照らしていた。 中央の薔薇が、闇の中で浮かび上がっている。 透花は薔薇の前に座り込んだ。「蒼くん……」 名前を呼んでも、答えはない。 当たり前だ。蒼はもういない。 透花は薔薇の花弁に触れた。 柔らかく、温かい。まるで、生きているように。「どうして……」 透花の声が震えた。「どうして、私は誰も救えないの……」 涙が溢れた。「お母さんも救えなかった。蒼くんも救えなかった。私は……何のために生きてるの……」 透花は声を上げて泣いた。 その時、背後で声がした。「泣けたのね、ようやく」 振り向くと、老婦人が立っていた。 いや、違う。 老婦人の姿は半透明で、月光を透かしていた。「あなたはいったい……」「私は美咲であり……そして、あなたでもある」 老婦人は透花の隣に座った。「え?」「私は、あなたの未来の可能性の一つ。もしあなたが、弱さを受け入れられなかった場合の」 透花は息を呑んだ。「私の……未来……?」「そう。美咲は、大切なものを失った後、それを受け入れられなかった。庭を探し続け、父の幻を追い続けた。そして、現実から目を背け続けた」 老婦人は薔薇を見つめた。「美咲は晩年、ようやく気づいた。庭は失われたの
last updateLast Updated : 2025-12-09
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第八章 雨の夜
 蒼の葬儀は、小さな教会で行われた。 参列者は家族と、学校の友人数名だけだった。透花も、そこにいた。 棺の中の蒼は、穏やかな顔をしていた。まるで眠っているように。 透花は蒼の額に触れた。 冷たかった。「蒼くん、ありがとう。あなたと出会えて、本当によかった」 透花は囁いた。 葬儀が終わり、参列者が去っていく。透花は最後まで残り、蒼の母親と話をした。「透花さん、蒼が最期に笑顔だったのは、あなたのおかげです」 母親は涙を流しながら言った。「蒼は、病気になってから、ずっと何かに怯えていました。でも、あなたと出会ってから、変わりました」「蒼くんが……変わった?」「ええ。以前より、穏やかになりました。そして、よく言っていました。『透花さんと話すと、生きてる実感がする』って」 透花の目が熱くなった。「私も、蒼くんと話すことで、救われました」「蒼の墓には、あなたが言っていた薔薇を植えます。『永遠の約束』という名前の」「ありがとうございます」 透花は深く頭を下げた。 家に帰ると、透花は母の日記を取り出した。 もう一度、最初から読み直す。 母の不安、喜び、悲しみ、願い。全てが、ページから溢れ出てくる。 そして透花は気づいた。 母は完璧な母親ではなかった。母も、不安で、怖くて、迷っていた。 でも、それでもなお、母は透花を愛し続けた。 それが、母の庭だったのだ。 透花は日記を閉じ、窓の外を見た。 雨が降り始めていた。 十月の冷たい雨。母の葬儀の日と同じ雨。 透花は傘を持たずに外に出た。 雨に打たれながら、透花は歩いた。 行く先は、温室。 最後に、あの薔薇を見たかった。 夜の温室は、雨音に包まれていた。 割れたガ
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第九章 朝の光
 十一月に入り、季節は晩秋から初冬へと移り変わっていった。 透花は学校に通い、普通の日常を取り戻しつつあった。でも、「普通」の意味が変わっていた。 以前の透花は、誰かのために生きることが当たり前だった。自分を犠牲にすることが、正しいことだと信じていた。 でも今は違う。 透花は自分のためにも生きることを学んだ。弱さを見せることを学んだ。助けを求めることを学んだ。 ある日、クラスメイトの女子が透花に話しかけてきた。「透花ちゃん、最近変わったね」「え? そう?」「うん。前より、なんていうか……自然な感じ」 女子は微笑んだ。「前は、完璧すぎて近寄りがたかった。でも今は、一緒にいて楽な感じがする」 透花は驚いた。 自分では気づかなかったが、周囲から見ると、透花は変わったのだ。「ありがとう」 透花は素直に答えた。 放課後、透花は市立図書館を訪れた。 もう老婦人がいないことは分かっていた。でも、透花はあの場所に行きたかった。 郷土資料室に入ると、柏木美咲のアルバムが棚に収められていた。 透花はアルバムを手に取り、最後のページを開いた。 晩年の美咲の写真。図書館の前で微笑む姿。 透花は写真に語りかけた。「美咲さん、私、あなたの道は選びませんでした。でも、あなたに感謝しています。あなたが教えてくれたから、私は自分の道を見つけられました」 透花はアルバムを閉じ、棚に戻した。 図書館を出ると、冬の陽が傾き始めていた。 透花は病院に向かった。 蒼のいた病室を訪れるためではない。別の用事があった。 病院のロビーで、透花は待っていた。 やがて、白衣を着た医師が現れた。「透花さん?」「はい」 透花は立ち上がった。 医師は、蒼の主治医だった人物だ。透花は事前に連絡
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第十章 透花の庭
 十二月、初雪が降った。 透花は窓から雪景色を眺めていた。白い世界が、静かに広がっている。 玄関のチャイムが鳴った。 透花が出ると、配達員が小包を持っていた。「透花さん宛です」「ありがとうございます」 透花は小包を受け取り、差出人を確認した。 蒼の母親からだった。 透花は小包を開けた。 中には、一冊の本と手紙が入っていた。 本は、植物図鑑。蒼が病室で読んでいたものだ。 手紙を開く。『透花さんへお元気ですか。突然お送りして、驚かれたかもしれません。この本は、蒼がいつも読んでいた植物図鑑です。蒼は、この本をあなたに渡してほしいと言っていました。「透花さんなら、この本の意味が分かってくれる」と。蒼は、短い人生でした。でも、最期の数か月は、幸せだったと思います。あなたと出会えたから。透花さん、ありがとう。蒼に、生きる喜びを教えてくれて。蒼の墓の薔薇は、元気に育っています。春になったら、きっと綺麗な花を咲かせてくれるでしょう。その時は、ぜひ見に来てください。蒼の母より』 透花は涙を拭い、植物図鑑を開いた。 ページの間に、しおりが挟まれていた。 そのページには、薔薇の項目があった。 そして、蒼の手書きのメモが添えられていた。『薔薇は、愛の象徴。でも、棘もある。痛みと美しさは、いつも一緒だ。生きることは、痛みを伴う。でも、だからこそ美しい。透花さん、ありがとう。君と出会えて、僕は生きる意味を知った。痛くても、辛くても、今日を生きる。それが、僕たちの庭だね。蒼』 透花は本を抱きしめた。 蒼の思いが、ページから伝わってくる。 透花は決めた。 この本を、大切にしよう。そして、いつか自分の子供に渡そう。 蒼の思いを、次の世代に繋いで
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