LOGIN十六歳の透花は、母を亡くした。 悲しみから目を背け、他者を救うことだけに生きる日々。それが透花の、歪んだ優しさだった。 ある日、古い図書館で出会った謎の老婦人が告げる。「失ったものが見つかる庭が、ある」と。 庭を探す透花は、難病の少年・蒼と出会う。彼を救いたい。その一心で、透花は廃墟の温室に咲く一輪の薔薇を見つける。七十年間、誰にも世話されず咲き続ける深紅の花。その名は『永遠の約束』。 だが、蒼の命は儚く消えた。 何も救えなかった。絶望の中で透花が辿り着いたのは、温室の薔薇の前だった。 雨の夜、透花は知る。庭とは失ったものを探す場所ではなく、失ったものと共に生きる場所だと。
View More雨は透花の世界を灰色に塗り替えた。
十月の冷たい雨が、黒い傘の列を濡らしていく。透花は喪服の袖で顔を覆い、母の棺が祭壇に運ばれるのを見つめた。棺の中には、もう二度と目を開けることのない母がいる。三年の闘病の末に、母は静かに息を引き取った。
透花は十六歳だった。
「透花ちゃん、しっかりね」
叔母の言葉が耳を通り過ぎていく。透花は頷いた。涙は出なかった。いや、出せなかった。悲しみは確かにそこにあるのに、それを表現する方法が分からない。まるで心に蓋をされたような、奇妙な空虚さだけが透花を満たしていた。
式が終わり、参列者が次々と去っていく。透花は一人、雨に打たれる墓標の前に立ち続けた。
「お母さん」
小さく呟いた声は、雨音に消える。
母は優しい人だった。病床でも、透花のことを気遣い続けた。「大丈夫よ」と微笑んで、透花の手を握った。その手は日に日に細くなり、やがて透花の手を握り返す力さえ失っていった。
最期の日、母は何か言おうとして、言葉にならなかった。透花はその唇の動きを読もうとしたが、分からなかった。母は静かに目を閉じ、そして二度と開かなかった。
あの時、母は何を言おうとしていたのだろう。
透花は墓標に手を伸ばした。冷たい石の感触が、指先から心臓まで冷気を送り込んでくる。
「すみません、透花さん。お車をお待たせしていますので」
葬儀社の男性の声に、透花は我に返った。頷いて、墓地を後にする。振り返ると、母の墓標が雨の向こうに霞んでいた。
家に戻ると、透花は母の部屋に入った。
病院から運ばれてきた母の私物が、段ボール箱に収められている。透花は箱を開け、一つ一つ取り出していった。パジャマ、スリッパ、読みかけの本。どれも母の匂いがする。
箱の底に、古い革表紙のノートがあった。
透花はそれを手に取り、開いた。母の丁寧な文字が、ページを埋めている。日記だった。
最初のページには、十七年前の日付が記されていた。透花が生まれる前だ。
『今日、妊娠が分かった。嬉しい。怖い。この小さな命が、ちゃんと育ってくれるだろうか。私は良い母親になれるだろうか』
透花は息を呑んだ。母の不安が、ページから滲み出てくる。
ページをめくる。母の日常が、言葉となって現れる。透花が生まれた日の喜び。初めて笑った日の感動。初めて歩いた日の驚き。
そして、透花が五歳の時の記述。
『透花は優しい子だ。公園で転んだ子を見て、自分のハンカチを差し出していた。誰に教えられたわけでもないのに。この子の優しさは、どこから来るのだろう』
透花の目が熱くなった。
『でも、少し心配だ。透花は自分のことより、他の人のことばかり気にする。自分が悲しい時でも、私に心配をかけまいと笑顔を作る。まだ五歳なのに』
透花は日記を閉じた。
母は知っていたのだ。透花が自分の感情を押し殺していることを。他者の痛みを引き受けることで、自分の痛みから逃げていることを。
でも、母はそれを責めなかった。ただ、心配していた。
透花は日記を抱きしめた。そして初めて、声を上げて泣いた。
一週間が過ぎた。
透花は学校に戻った。クラスメイトたちは気を遣って、透花に話しかけることを躊躇った。透花はそれに感謝しつつも、その距離が自分を一層孤独にすることを感じていた。
放課後、透花は図書室に向かった。
本に囲まれた静かな空間が、透花の唯一の安らぎの場所だった。司書の先生は優しく微笑み、何も聞かずに透花を迎え入れてくれた。
透花は奥の席に座り、本を開いた。文字が目に入ってくるが、意味は頭に入らない。ただページをめくる動作だけが、透花に何かをしているという感覚を与えてくれた。
夕方近く、透花は図書室を出た。
校門を出ると、小雨が降り始めていた。透花は傘を開き、いつもと違う道を選んだ。家に帰りたくなかった。母のいない家に。
住宅街を抜け、商店街を通り過ぎる。やがて透花は、古い建物の前に立っていた。
市立図書館。
透花は何度か前を通ったことがあったが、中に入ったことはなかった。古びた建物は、昭和の香りを漂わせている。
なぜか、透花は中に入りたくなった。
重い扉を押し開けると、古い本の匂いが鼻をついた。木製の床が、足音に反応して軋む。
館内は薄暗く、訪れる人もまばらだった。受付の女性は眠そうに雑誌を読んでいる。
透花は書架の間を歩いた。
哲学、歴史、文学。背表紙が並ぶ。透花は文学の棚の前で立ち止まり、適当に一冊を取り出した。
「その本は、悲しい人には向かないわ」
声に振り向くと、老婦人が立っていた。
白髪を丁寧に結い上げ、上品な装いをしている。だが、その顔には深い皺が刻まれ、目は不思議な光を宿していた。
「え?」
「その本は、悲しみに沈む人を一層深い淵に引きずり込むの。あなたには、別の本が必要だわ」
老婦人は透花から本を受け取り、棚に戻した。そして別の本を取り出し、透花に手渡した。
「これを」
表紙には『失われた庭の物語』と書かれていた。
「これは……?」
「読めば分かるわ。でも、今日はもう遅い。借りていきなさい」
老婦人は微笑んだ。その微笑みには、どこか透花を見透かすような、不思議な深みがあった。
「あの、あなたは……」
「ただの本好きの老婆よ。でも、あなたは特別ね。透花ちゃん」
透花は息を呑んだ。
「どうして私の名前を……」
「さあ、早く帰りなさい。雨が強くなるわ」
老婦人はそう言うと、書架の奥に消えていった。透花は後を追おうとしたが、その姿はもう見えなかった。
透花は本を胸に抱き、図書館を後にした。
その夜、透花は借りてきた本を開いた。
それは一冊の童話のようだった。挿絵もなく、ただ文字だけが続く。
『昔々、ある国に美しい庭がありました。その庭では、失われたものが再び見つかると言われていました』
透花は読み進めた。
物語の主人公は、大切な人を失った少女だった。少女は庭を探して旅に出る。道中、様々な人に出会い、様々な試練を乗り越える。
だが、物語は途中で終わっていた。最後のページには、こう書かれていた。
『少女は庭を見つけたでしょうか。それは、あなたが決めることです』
透花は本を閉じた。
失われたものが見つかる庭。そんなものが、本当にあるのだろうか。
いや、あるはずがない。
でも、透花の心の奥で、小さな希望が芽生えていた。もしかしたら。もしかしたら、母に会えるのではないか。もう一度、母の声を聞けるのではないか。
透花は母の日記を取り出し、続きを読んだ。
『透花が十歳になった。最近、よく図書館に行くようになった。本が好きなのは、私に似たのかもしれない。でも、透花は本の中に何を探しているのだろう』
透花は息を呑んだ。
そうだ。透花はずっと、何かを探していた。本の中に、答えを。自分の存在する理由を。誰かの役に立つ方法を。
『今日、透花が泣いていた友達を慰めていた。優しい子だ。でも、透花自身が泣く姿を、私は見たことがない。この子は、本当は誰に慰めてほしいのだろう』
透花の視界が滲んだ。
母は全て知っていた。透花の弱さも、痛みも、孤独も。でも、母は何も言わなかった。ただ、そばにいてくれた。
そして今、母はいない。
透花は日記を閉じ、窓の外を見た。雨は止んでいた。夜空には、雲の切れ間から星が見えた。
明日、もう一度図書館に行こう。あの老婦人に会おう。そして、庭のことを聞こう。
それが何の役に立つのか、透花には分からなかった。でも、何もしないよりはましだった。
透花は本を枕元に置き、目を閉じた。
夢の中で、母が微笑んでいた。
十二月、初雪が降った。 透花は窓から雪景色を眺めていた。白い世界が、静かに広がっている。 玄関のチャイムが鳴った。 透花が出ると、配達員が小包を持っていた。「透花さん宛です」「ありがとうございます」 透花は小包を受け取り、差出人を確認した。 蒼の母親からだった。 透花は小包を開けた。 中には、一冊の本と手紙が入っていた。 本は、植物図鑑。蒼が病室で読んでいたものだ。 手紙を開く。『透花さんへお元気ですか。突然お送りして、驚かれたかもしれません。この本は、蒼がいつも読んでいた植物図鑑です。蒼は、この本をあなたに渡してほしいと言っていました。「透花さんなら、この本の意味が分かってくれる」と。蒼は、短い人生でした。でも、最期の数か月は、幸せだったと思います。あなたと出会えたから。透花さん、ありがとう。蒼に、生きる喜びを教えてくれて。蒼の墓の薔薇は、元気に育っています。春になったら、きっと綺麗な花を咲かせてくれるでしょう。その時は、ぜひ見に来てください。蒼の母より』 透花は涙を拭い、植物図鑑を開いた。 ページの間に、しおりが挟まれていた。 そのページには、薔薇の項目があった。 そして、蒼の手書きのメモが添えられていた。『薔薇は、愛の象徴。でも、棘もある。痛みと美しさは、いつも一緒だ。生きることは、痛みを伴う。でも、だからこそ美しい。透花さん、ありがとう。君と出会えて、僕は生きる意味を知った。痛くても、辛くても、今日を生きる。それが、僕たちの庭だね。蒼』 透花は本を抱きしめた。 蒼の思いが、ページから伝わってくる。 透花は決めた。 この本を、大切にしよう。そして、いつか自分の子供に渡そう。 蒼の思いを、次の世代に繋いで
十一月に入り、季節は晩秋から初冬へと移り変わっていった。 透花は学校に通い、普通の日常を取り戻しつつあった。でも、「普通」の意味が変わっていた。 以前の透花は、誰かのために生きることが当たり前だった。自分を犠牲にすることが、正しいことだと信じていた。 でも今は違う。 透花は自分のためにも生きることを学んだ。弱さを見せることを学んだ。助けを求めることを学んだ。 ある日、クラスメイトの女子が透花に話しかけてきた。「透花ちゃん、最近変わったね」「え? そう?」「うん。前より、なんていうか……自然な感じ」 女子は微笑んだ。「前は、完璧すぎて近寄りがたかった。でも今は、一緒にいて楽な感じがする」 透花は驚いた。 自分では気づかなかったが、周囲から見ると、透花は変わったのだ。「ありがとう」 透花は素直に答えた。 放課後、透花は市立図書館を訪れた。 もう老婦人がいないことは分かっていた。でも、透花はあの場所に行きたかった。 郷土資料室に入ると、柏木美咲のアルバムが棚に収められていた。 透花はアルバムを手に取り、最後のページを開いた。 晩年の美咲の写真。図書館の前で微笑む姿。 透花は写真に語りかけた。「美咲さん、私、あなたの道は選びませんでした。でも、あなたに感謝しています。あなたが教えてくれたから、私は自分の道を見つけられました」 透花はアルバムを閉じ、棚に戻した。 図書館を出ると、冬の陽が傾き始めていた。 透花は病院に向かった。 蒼のいた病室を訪れるためではない。別の用事があった。 病院のロビーで、透花は待っていた。 やがて、白衣を着た医師が現れた。「透花さん?」「はい」 透花は立ち上がった。 医師は、蒼の主治医だった人物だ。透花は事前に連絡
蒼の葬儀は、小さな教会で行われた。 参列者は家族と、学校の友人数名だけだった。透花も、そこにいた。 棺の中の蒼は、穏やかな顔をしていた。まるで眠っているように。 透花は蒼の額に触れた。 冷たかった。「蒼くん、ありがとう。あなたと出会えて、本当によかった」 透花は囁いた。 葬儀が終わり、参列者が去っていく。透花は最後まで残り、蒼の母親と話をした。「透花さん、蒼が最期に笑顔だったのは、あなたのおかげです」 母親は涙を流しながら言った。「蒼は、病気になってから、ずっと何かに怯えていました。でも、あなたと出会ってから、変わりました」「蒼くんが……変わった?」「ええ。以前より、穏やかになりました。そして、よく言っていました。『透花さんと話すと、生きてる実感がする』って」 透花の目が熱くなった。「私も、蒼くんと話すことで、救われました」「蒼の墓には、あなたが言っていた薔薇を植えます。『永遠の約束』という名前の」「ありがとうございます」 透花は深く頭を下げた。 家に帰ると、透花は母の日記を取り出した。 もう一度、最初から読み直す。 母の不安、喜び、悲しみ、願い。全てが、ページから溢れ出てくる。 そして透花は気づいた。 母は完璧な母親ではなかった。母も、不安で、怖くて、迷っていた。 でも、それでもなお、母は透花を愛し続けた。 それが、母の庭だったのだ。 透花は日記を閉じ、窓の外を見た。 雨が降り始めていた。 十月の冷たい雨。母の葬儀の日と同じ雨。 透花は傘を持たずに外に出た。 雨に打たれながら、透花は歩いた。 行く先は、温室。 最後に、あの薔薇を見たかった。 夜の温室は、雨音に包まれていた。 割れたガ
深夜、透花は病院の裏手の柵を越えた。 月明かりが、うっそうとした木々の間を照らしている。透花は温室に向かって歩いた。 枯れ葉を踏む音だけが、静寂を破る。 温室に着いた。 月光が割れたガラスの天井から差し込み、内部を幻想的に照らしていた。 中央の薔薇が、闇の中で浮かび上がっている。 透花は薔薇の前に座り込んだ。「蒼くん……」 名前を呼んでも、答えはない。 当たり前だ。蒼はもういない。 透花は薔薇の花弁に触れた。 柔らかく、温かい。まるで、生きているように。「どうして……」 透花の声が震えた。「どうして、私は誰も救えないの……」 涙が溢れた。「お母さんも救えなかった。蒼くんも救えなかった。私は……何のために生きてるの……」 透花は声を上げて泣いた。 その時、背後で声がした。「泣けたのね、ようやく」 振り向くと、老婦人が立っていた。 いや、違う。 老婦人の姿は半透明で、月光を透かしていた。「あなたはいったい……」「私は美咲であり……そして、あなたでもある」 老婦人は透花の隣に座った。「え?」「私は、あなたの未来の可能性の一つ。もしあなたが、弱さを受け入れられなかった場合の」 透花は息を呑んだ。「私の……未来……?」「そう。美咲は、大切なものを失った後、それを受け入れられなかった。庭を探し続け、父の幻を追い続けた。そして、現実から目を背け続けた」 老婦人は薔薇を見つめた。「美咲は晩年、ようやく気づいた。庭は失われたの